こんにちは。
アラフォーパパです。
前回は「尊攘運動の弾圧」という題名で記事を書きました。
尊攘派が日本各地で計画された挙兵が存在しました。
孝明天皇の大和行幸を機会としたものから、公卿を持ち上げたもの、志士たちがあつまり計画したものなど様々でした。
しかし、それに対して、会津藩の松平容保が努めた京都守護職に関連した国分合体派の団体によって鎮圧されて行きました。
今回は、尊攘派の諸藩が勢力を盛り返したり、攘夷を達成しようとして行った戦いを中心におさらいしていきましょう。
それではご覧ください。
蛤御門の変
まずは、1864年7月に長州藩の尊攘派の志士が起こした事件からです。
勢力が急速に衰えてきていた尊攘派ですが、勢いを取り戻すためにも起死回生の一手を打ちたいと考えていました。
藩兵や各地の志士をあつめ、それらを率いて上京したのです。
当然、御所警備の任にあった薩摩藩・会津藩・桑名藩などの藩は兵を率いて迎え撃ちました。
結果として、長州藩は負け、朝敵とされてしまいます。
蛤御門の変以降、幕府は朝廷の勅命を受け、長州征討の大義名分を得ることになります。
ちなみに、蛤御門の変は禁門の変とも呼ばれます。
禁門とは、容易く出入りができないように警備をされた門のことで、そこから皇居の門などの意味になります。
他にも禁軍や禁中などの言葉が関連用語として存在します。
薩英戦争
薩摩藩はイギリスと事を構えました。
きっかけは生麦事件です。
生麦村で島津久光の行列をイギリス商人が妨げたということをきっかけとして、商人を薩摩藩士が殺傷した事件でした。
イギリスはこの事件に対して、犯人処罰と賠償金の支払いを要求しました。
しかし、攘夷を唱えていたことや、大名行列を妨げた場合には無礼討ちが通常(日本の中だけですが)だったこともあり、薩摩藩は応じませんでした。
そこで、イギリスが1863年7月に、7隻の艦隊でもって鹿児島湾に侵入しました。
鹿児島市街の一部が焼かれましたが、イギリスの艦隊も大きな被害を受けたことから退去することとなります。
薩摩藩は、この戦争をきっかけとして攘夷が無謀であることを認識することになります。
ただし、イギリスも薩摩藩を見直すなど一定の効果もあったようです。
四国連合艦隊下関砲撃事件
長州藩は、攘夷実行のために外国船を相次いで砲撃しました。

そのため、砲撃された国々は協力して長州藩に報復をします。
イギリスやフランス、アメリカ、オランダの4カ国は連合をくみ、長州藩を攻撃します。
1864年8月のことです。
17隻もの軍艦と5000名を超える兵員での攻撃でした。
下関の砲台は破壊され、陸戦隊によって占領されました。
長州藩は奇兵隊とよばれる武士以外の身分を含んだ軍隊を編成していましたが、手も足も出ませんでした。
この事件によって、長州藩は近代的軍備の優秀さを認識して、積極的に取り入れるようになっていきます。
第1次長州征討
様々な事件がありましたが、長州藩の行動が目に余るために、朝敵となり、幕府に朝廷から勅命が下ります。
長州征討の勅命です。
前尾張藩主である徳川慶勝を征長総督とし、長州藩を完全に包囲します。
1864年10月のことです。
蛤御門の変からわずか3ヶ月後のことです。
タイミングはさらに長州藩に不利となり、8月には四国連合艦隊下関砲撃事件が起きていましたので、長州藩はボロボロの状態で、実権は保守派が取り戻していました。
そのため、長州藩は戦わずして恭順を示すことになります。
尊攘派の指導者たち(高杉晋作など)は弾圧され、藩外に逃げのびるか、捕えられてしまいました。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
今回は「尊攘派諸藩の戦い」と題して、記事を作成しました。
薩摩藩や長州藩は攘夷を実際に実行し、現実問題として今のままでは難しいと考えます。
イギリスをはじめとした海外勢の軍備は優秀で、太刀打ちできないことを悟ったからです。
薩英戦争や四国連合艦隊下関砲撃事件がそのきっかけとなります。
一時的に弱った長州藩は幕府によって制圧されてしまいますが、今後はどのようになっていくのでしょうか。
ぜひ、繰り返しご覧ください。
最後までご覧いただきありがとうございました。
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