こんにちは。
アラフォーパパです。
前回は「教育制度の改革」という題名で記事を書きました。
明治政府は、近代的な統一国家建設のために教育制度の改革を進めました。
フランスの学制をモデルとした「学制」が公布されたのです。
その結果、現在の東京大学の前身となる大学校が創立され、現在の名門私立大学につながる学校も創立されていきました。
しかし、「学制」が地方には合わなかったこともあり、統制を緩めた教育令を出す羽目になりましたが、画一的な国民教育の前進にとっては障害でしかありませんでした。
最終的には改正教育令によって統制の強化を図ることとなってしまいました。
今回は、明治時代に西洋の思想がどうやって日本に入ってきたのかについておさらいしていきましょう。
それではご覧ください。

江戸時代との違い
はじめに、江戸時代では、洋学といえばオランダを通じてもたらされたものを指しました。
これは、長崎の出島で対オランダ貿易を行ってきた影響ですね。
しかし、幕末からは様々な国に強制的に国交を開くことになります。
とりわけ、イギリスやフランスなどの影響が大きくなっていきます。

海外留学生
明治になると欧米諸国への留学が相次いで行われました。
例えば、1871年に欧米に向かった岩倉使節団には59人の留学生が随行していました。
その留学生の中には、当時8歳の津田梅子(津田塾大学創設者)も含まれていました。
このように、留学生たちは帰国後に各回の指導的地位につき、欧米の行政知識や学問を日本にもたらしていきました。

外国人教師
留学だけでなく、欧米から教師を招いて、欧米の知識を日本へと移植しようとしていました。
招かれた教師陣は御雇外国人(おやといがいこくじん)と呼ばれ、1875年には500人程度になっていました。
札幌農学校の創設に関わったクラークや民法編纂などを指導したボアソナード、大森貝塚発見・掘削を行ったモースなどが代表例です。

西洋思想
日本にもたらされた西洋思想には大きく分けて2つの傾向がありました。
イギリス・アメリカ流の自由主義・功利主義、加えて進化論の思想が1つめ。
2つめはフランス流の自由平等・天賦人権の思想です。

イギリス・アメリカ流
アダム=スミスやベンサム、ミル、スペンサーなどの学説が日本に紹介されました。
福沢諭吉の「学問ノススメ」や中村正直が訳出した「西国立志編」などがイギリス・アメリカ流の思想に属しています。

フランス流
モンテスキュー、ボルテール、ルソーらの思想として伝えられました。
フランスからきた自由平等や天賦人権の思想は、自由民権運動に大きな影響を与えました。
日本人では、ルソーの「民約論」を訳出した中江兆民の「民約訳解」が有名です。

明六社
西洋思想の輸入に大きな役割を果たした組織がありました。
明六社という民間の近代的学会です。
提唱したのはアメリカから記憶した森有礼で、1873年に結成されました。
会を構成している人々は、幕府の開成所の出身者が多く、社員数は30名程度でした。
しかし、いづれも大きな影響を与えている人々であり、福沢諭吉・中村正直・西村茂樹・西周などが参加していました。
明六社は1874年3月には、明六雑誌を創刊しており、雑誌の発行や講演の開催によって文明開化の思想をひろく国民に普及させました。

まとめ
いかがでしたでしょうか。
今回は「西洋思想の導入」と題して、記事を作成しました。
多くの留学生が西欧諸国に赴き、様々な知識を持ち帰り、日本に影響を与えました。
また、西欧諸国の知識人を御雇外国人として雇い入れることで、直接知識や思想を輸入していきました。
この際、イギリス・アメリカ流の自由主義・功利主義・進化論の思想とフランス流の自由平等・天賦人権の思想の両方が日本へと流入しました。
例えば、フランス流の思想は自由民権運動に大きな影響を与えました。
これらの輸入に大きな役割を果たしたのが、明六社とよばれる民間の近代的学会でした。
福沢諭吉などの有名どころが所属していたことが知られています。
このようにして、明治初期には欧米諸国の思想が日本に輸入され、江戸時代のオランダを通じて得られた知識からの変化が訪れていきました。
ぜひ、繰り返しご覧ください。
最後までご覧いただきありがとうございました。

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