こんにちは。
アラフォーパパです。
前回は「安政の大獄前後」という題名で記事を書きました。
幕政を担う老中や大老によって、大きな対立が出来上がっていきます。
最初は譜代の小藩と雄藩連合の権力争い程度のものでしたが、将軍継嗣問題や日米修好通商条約の締結などによって、南紀派と一橋派の対立だけでなく、老中や大老を担う譜代の幕臣は尊王論や攘夷論を掲げる者たちとも対立していきます。
幕政を維持するために弾圧を始めますが、結果として対立がさらに激化しただけという結果に終わります。
大老の暗殺という異常事態が起きてしまった情勢でどのようにして幕府を運営していけばよいのか。
桜田門外の変のあとの流れを見ていきたいと思います。
今回は、公武合体を中心におさらいしていきましょう。
それではご覧ください。
日本の情勢
桜田門外の変がおき、大老井伊直弼が暗殺されるという異常事態となっていた日本では、半幕運動が激化していきました。
反幕運動を抑えるにはどうしたら良いのか。
尊王論者も攘夷論者も一橋派の諸大名も敵にしていたのですから、簡単なことではありません。
幕政を担っていた譜代の大名たち(老中等)はどのように考えていたのでしょうか。
朝廷の権威の利用
井伊直弼が暗殺されたため、老中安藤信正などが中心となって、幕政を担っていました。
反幕運動は激化の一途を辿っていましたので、やれることは敵をどれだけ減らせるかの一点となります。
そこで、朝廷との協調路線をはかり、朝廷の権威を利用することで反幕運動の勢いを挫こうとします。
これが、公武合体と呼ばれる政策に繋がります。
老中の安藤信正は久世広周とともに公武合体政策を推し進め、孝明天皇の妹である和宮(親子内親王)を将軍徳川家茂の夫人として迎えたいという要求を行います。
交渉の結果、1861年に和宮は江戸に下り(京都が中心なので江戸に行くことは「下り」になります)、1862年に徳川家茂と和宮は結婚することとなります。
孝明天皇の妹と将軍徳川家茂が結婚したことで、朝廷と徳川家が強い親戚関係となることから、朝廷の権威を用いて、反幕運動を抑えようという目論見に一歩前進したこととなりました。
尊王論者の反幕運動を牽制したことになります。
坂下門外の変
しかし、公武合体によって反幕運動の勢いが削がれるかと思われましたのですが、大いなる反対にあいます。
特に、尊王攘夷派の志士たちは、宇都宮藩の儒者である大橋訥庵(とつあん)らを中心として、1862年1月に老中の安藤信正を襲撃します。
襲撃場所は坂下門外です。
ちなみに、事前に発覚していたこともあり、中心人物である大橋訥庵は事が起こる前に逮捕されていました。
公武合体を推し進めた安藤信正は、この事件がきっかけとなり、失脚します。
島津久光の影響
公武合体を利用して、孝明天皇に幕府と強調すべきと訴えた人物がいます。
島津久光です。
当時の薩摩藩の藩主の実父でした。
大軍を率いて京都に入り、孝明天皇に尊王攘夷派の急進的な行動を抑えるべきだと訴えます。
また、伏見の寺田屋に集まった自藩の急進派の弾圧も行います。
この弾圧を行った事件が寺田屋事件です。
ただし、一方的に朝廷に譲歩するよう求めたわけではありません。
勅使として大原重徳と擁立して江戸に下り、幕府に対しても幕政改革の勅命を伝えました。
文久の幕政改革
勅命(天皇からの命令)が下ったことをきっかけにして、幕府は改革に乗り出します。
まずは敵対していた一橋派が推していた一橋慶喜を将軍後見職とします。
また、雄藩連合の松平慶永を政治総裁職とします。
さらに、松平容保が松平慶永をはじめとした多くの者から請われ、最終的に京都守護職となりました。
軍事面においては、洋式兵制の採用を行い、経済面については参勤交代制の緩和が行われました。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
今回は「公武合体」と題して、記事を作成しました。
公武合体による尊王攘夷派の勢いを削ぐことは難しかったようですが、最終的には幕府の改革へと続く道がひらけたきっかけと考えてもよいのではないでしょうか。
尊王論者を幕府側へと取り込み、一橋派も幕府側へと取り込むための政策によって、文久の改革が進められていきました。
それぞれの勢力がどのように変化していったのかを追っていくと流れがみえるのではないかと思います。
ぜひ、繰り返しご覧ください。
最後までご覧いただきありがとうございました。
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