(近代日本史)インフラの整備

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こんにちは。

アラフォーパパです。

前回は「新貨幣と国立銀行」という題名で記事を書きました。

明治政府は新しい貨幣制度の確立や新しい金融制度の確立を求めていました。

そのため新貨条例や国立銀行条例などを制定して対応しました。

これらは伊藤博文や渋沢栄一が関わっていました。

しかし、財政対策のための貨幣の供給過多や戦争による物品の需要増大によってインフレーションを引き起こしてしまい、国民生活には大きな打撃を与えることになってしまいました。

今回は、鉄道や通信、郵便などのインフラの整備についておさらいしていきましょう。

それではご覧ください。

鉄道

はじめて開通した鉄道は、東京(新橋)~横浜間でした。

1872年にイギリスから資金・技術を導入して開通させたのです。

当時は、「陸蒸気(おかじょうき)」と呼ばれていました。

運賃は非常に高く、一部上層の国民のためのものでした。

運賃は、
「上等」が1円12銭5厘
「中等」が75銭
「下等」が37銭5厘
でした。

比較対象をあげてみますと、富岡製糸場の一等工女の日給が7銭8厘でした。

庶民にはとても縁遠いものだということがわかりますね。

その後、主要都市間の鉄道が施設され、1889年には東海道線が全通しました。

時間が経つに連れ、民間の鉄道経営も盛んになっていきました。

海運

1870年に半官半民の廻漕会社が設立されました。

翌年には、廻漕取扱所が設立されました。

その後、廻漕会社は、政府の援助によって設立した日本政府郵便蒸気船会社に引き継がれましたが、75年には経営不振のために解散となってしまいました。

民間では、土佐出身の岩崎弥太郎が70年に設立した九十九商会が、73年に三菱商会と解消して、軍需輸送によって急速に発展しました。

さらに、経営不振のために解散した郵便蒸気船会社の事業も吸収して、郵便汽船三菱会社となりました。

このようにして、外国の汽船会社に支配されている状態であった近海航路において海運業として参入していきました。

通信

はじめは東京~横浜間に開通しました。

1869年12月のことです。(工事に着手したのは1869年10月23日)

軍事的要請によって急速に全国に施設しましたが、官庁や軍隊の通信にのみ使用されていました。

1877年になり、電話が輸入され、1890年に電話サービスが開始されました。

>>電話の歴史

郵便

江戸時代の郵便といえば、飛脚ですね。

そのため、最初は飛脚制度を改善していくという方針でした。

しかし、前島密(まえじまひそか)の建議によって、欧米の制度が移植されました。

1868年には駅逓司(えきていし)が創設されました。

3年後には東京~大阪間ではじめて官営の郵便事業が始まりました。

料金は量目制(全国均一)でした。

77年には万国郵便連合条約に加盟し、国際間の連絡も便利になっていきました。

まとめ

いかがでしたでしょうか。

今回は「インフラの整備」と題して、記事を作成しました。

流通や通信などのインフラストラクチャーの発展のために明治政府は力をかけていました。

鉄道は当初は運賃も非常に高く、一部の上層国民のためというイメージでしたが、次第に全国に広がっていき、民間の鉄道も盛んになっていきました。

開運では岩崎弥太郎の三菱紹介が、政府の郵便蒸気船会社も吸収し発達していきました。

当初は官庁や軍隊では通信が使われていましたが、電話サービスが開始されたのは1890年になってからで、電信は軍事的な意味合いのつよいものでした。

郵便制度は飛脚制度からの変更を行い、数年で東京~大阪間を結び、次第に国際間の連絡をすることができるようになるなど、素早い発展が見られました。

ぜひ、繰り返しご覧ください。

最後までご覧いただきありがとうございました。

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