(近代日本史)大政奉還の建白

※当サイトはアフィリエイト広告を利用しています。

大学受験範囲

こんにちは。

アラフォーパパです。

前回は「倒幕運動」という題名で記事を書きました。

長州藩が不死鳥のごとく復活し、幕府のやり方に反発した薩摩藩が倒幕へと切り替わりました。

さらに、イギリスによる援助のもと近代化を推し進めていった結果が、長州と幕府との戦争での結果に繋がります。

幕府は軍備も旧式であり、社会情勢にも足を引っ張られました。

そして、味方だとおもっていた薩摩藩にもそっぽを向かれてしまいました。

ただし、これらは幕府が行ってきた政治に問題があったからではないかと考えられます。

このようにして、幕府の権威は失墜していき、倒幕が現実味を帯びてきてしまう事となってしまうのです。

今回は、幕府に対して大政奉還をしたほうが良いのではないかという意見がでてきた時期を中心におさらいしていきましょう。

それではご覧ください。

第15代将軍

第二次長州征討のまっただなかに第14代将軍家茂はなくなりました。

幕府は敗戦し、権威の失墜を免れませんでした。

そんな中、第15代将軍となったのは、一橋慶喜でした。

第13代将軍であった家定が病弱なため、跡継ぎを早く決定しようとしたところ、一橋派と南紀派(紀州派)にわかれて対立したことを覚えていますでしょうか。

その時の一橋派が押したのが、一橋慶喜でした。

将軍になったのは1866年12月のことでした。

フランスの援助

フランス公使ロッシュは幕府に対して経済的・軍事的な援助を与えていました。

一橋慶喜が将軍になったあと、ロッシュによる健策があり、幕府は目覚ましい改革を進めることになります。

慶応の幕政改革

大きく2つの改革が行われました。

1つ目は、政治面です。

人材の抜擢と老中を海軍、陸軍、会計、国内事務、外国事務にわける内閣制に近い制度へと改めました。

2つ目は、軍事面です。

フランス軍事教官を招聘し、歩兵・騎兵・砲兵の3種類をもつ常備軍を編成しました。

この改革の目的としては、討幕派を圧倒する実力をつけることでした。

孝明天皇の死

孝明天皇は討幕に反対していたという事実があります。

そのため、1866年12月に急死した際には、討幕派の毒殺も疑われました。

しかし、この天皇の死により討幕派に協力する岩倉具視をはじめとした急進派公卿の勢力が強まり、薩長両藩と岩倉らとの連携が強まっていきました。

その後、1867年に明治天皇が即位します。

四候会議(しこうかいぎ)

将軍慶喜は、幕府が対外的に主権者であることを示そうと考えました。

孝明天皇が亡くなったあとの、1867年です。

そこで、外国諸国の公使と公式に会見を行いました。

この際、イギリス公使パークスは兵庫開港を迫りましたが、容易に勅許が得られるものではないことでした。

パークスとつながりのあった薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通らは、勅許を妨害しつつ、パークスに開港要求をさせることによって、幕府から雄藩連合へと実権を移そうと画策しました。

雄藩連合の薩摩の島津久光、宇和島の伊達宗城、土佐の山内豊信、越前の松平慶永(四候)が行う会議に兵庫開港に関わる事態の処理を回したのです。

しかし、山内豊信や松平慶永は佐幕的な態度を固守したので会議は行き詰まってしまいました。

加えて、慶喜の強い態度もあり、幕府権力を減らそうという画策は失敗に終わりました。

薩摩藩の方針

薩摩藩は四候会議の企みがうまくいかなかったこともあり、権力を削る方針を諦め始めました。

そのため、武力によって討幕することを方針として考え始めました。

その結果、長州や芸州との出兵盟約が9月に成立することとなりました。

土佐藩の後藤象二郎の構想

幕府と薩長の武力衝突の可能性が高まるなか、土佐藩の後藤象二郎は新しい国家体制を構想しました。

これは、幕府も雄藩連合も含めて、すべて天皇の下で連合体制を組んで政治を行おうというものでした。

公議政体論と呼ばれるこの新しい国家体制坂本龍馬の船中八策をもいれて作られたものでした。

大政奉還の建白

土佐藩は、公議政体論を利用して、とりあえず討幕派の機先を制するために幕政の返上、すなわち大政奉還が必要と考えました。

そこで、1867年10月に土佐藩は、全藩主の山内豊信から幕府に対して大政奉還の建白(上役に自分の意見を申し立てること)を行いました。

幕府では、公議政体論の通りに話が進んだ場合に、慶喜が雄藩諸侯会議のなかで実権をにぎることができると判断しました。

そこで大政奉還を朝廷に申し入れました。

これが10月14日の事です。

まとめ

いかがでしたでしょうか。

今回は「大政奉還の建白」と題して、記事を作成しました。

様々な思惑が重なり、幕府と薩長の武力対決が一時的にではありますが、回避されました。

そして、大政奉還によって政治を行うことを朝廷に返上します。

幕府側と雄藩連合側それぞれの実権争いについて、細かく知っておくことが重要です。

大政奉還に向かうきっかけとなった土佐藩の公議政体論についても学んでおきましょう。

ぜひ、繰り返しご覧ください。

最後までご覧いただきありがとうございました。

スポンサーリンク
大学受験範囲
スポンサーリンク
unapaiをフォローする
スポンサーリンク

コメント

タイトルとURLをコピーしました