こんにちは。
アラフォーパパです。
前回は「貿易開始の影響」という題名で記事を書きました。
突然様々な国との貿易が始まれば、物資の移動にともなって様々な歪が現れることは想像に難くありません。
実際に、通商条約後の日本では、輸出品として生糸などがありましたが、それによって日本国内では生糸の値段が上がってしまい、国内産業に大打撃がおきました。
一方で、輸出品を製造している分野は好景気と表現してもいいと思います。
このような産業の変革期には、流通の変化も起きやすく、この時期では在郷商人の活動にも注意を払って学んでいくことが大事になります。
今回は、雄藩連合運動についておさらいしていきましょう。
それではご覧ください。
雄藩連合とは
まずは、雄藩についてです。
幕末に藩政改革に成功し、反省再建や軍事力の近代化を行って、政局に発言力を持ち、幕政を左右するまでにいたった大藩のことを雄藩と呼びます。
代表的な雄藩は、薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩(佐賀藩)などが挙げられます。
これらの雄藩や親藩から幕政改革の意見が出されるようになります。
これを雄藩連合の動きというような言葉で表したりします。
幕政への発言
もともと徳川幕府は、譜代の小藩が独裁的に幕政を担っていました。
しかし、ペリーの来航などの外交的問題や幕府権力の弱体化などから、今まで通りの幕府の体制では立て直しができない状態に至っていました。
そこで、水野忠邦の失脚のあとに幕政の中心となった阿部正弘は、徳川斉昭などの有力大名との協調路線に舵をきり、家柄にこだわらない有能な幕吏の養成に務めるなど、様々な努力を行いました。
この流れのなかで、徳川斉昭だけでなく、徳川慶勝、松平慶永(春嶽)、島津斉彬、山内豊信(容堂)などは互いに連絡を取り合って、幕政に発言をするようになっていきます。
幕政の大きな転換点となるのです。
なお、当主だけでなく、松平慶永の家臣である橋本左内や島津斉彬の家臣である西郷隆盛など、活躍した方々は数多くいます。
幕府と雄藩連合
雄藩連合が発言力を増していく中、幕府と雄藩連合はそれぞれ改革や跡継ぎ問題など様々な課題に取り組み、対立していきます。
また佐幕VS尊王や開国VS尊王といった様々な思想の派閥に影響を与えていくことになります。
安政の改革
人材においては、勝海舟や岩瀬忠震、川路聖謨など低い身分出身の者が、阿部正弘に抜擢され幕吏として活躍して行きました。
また、幕府は外国からの影響があることから、国防へと力を注ぐこととなり、大船建造が解禁されたり、伊豆(韮山)に反射炉を建設したり、江戸湾に台場(砲台)を設けたりと様々な対応を行っていきました。
さらに、江戸に洋学所(蕃書調所)と講武所(洋式砲術などの訓練所)、長崎に海軍伝習所を設けるなど近代的軍備を整えるための改革が行われました。
雄藩においても、独自に反射炉の建設や鉄砲の製造が行われました。
このように、幕府も雄藩も戦力を整えていったということが、のちにつながる重要なポイント担っていきます。
将軍継嗣問題
時の将軍、徳川家定(13代)は病弱であったため、外交問題を抱えていた幕府は跡継ぎをしっかりと決めておく必要があると判断していました。
問題は、雄藩は一橋慶喜(徳川斉昭の子)を推し、井伊直弼(彦根藩主)を中心とした譜代の小藩は徳川慶福を推し、対立したという点です。
一橋慶喜は年長で能力があるため推されましたし、徳川慶福は血筋が将軍に近い紀伊藩主であるからという理由で推されています。
これによって、一橋派と紀州(南紀)派に幕府内部が別れてしまいます。
継嗣問題だけにとどまらず、雄藩連合と譜代の小藩の対立に発展してしまうという点で、非常に重要なポイントとなりました
まとめ
いかがでしたでしょうか。
今回は「雄藩連合運動」と題して、記事を作成しました。
幕府の立て直しのために、有力大名の力を必要としたわけですが、力を貸しただけで終わるわけもなく、様々な幕府内部の対立へと発展していきます。
特に、継嗣問題は決定的な対立を生む原因となっており、このあとの幕政に大きな影響を残していくことになります。
雄藩連合については、どこの藩の誰が中心となっていたのかについてしっかりと覚えておく必要があります。
また、軍備の増強については、どういった施設を建てたのかを整理していく必要があります。
ぜひ、繰り返しご覧ください。
最後までご覧いただきありがとうございました。
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