こんにちは。
アラフォーパパです。
前回は「開国を迫る欧米諸国」という題名で記事を書きました。
19世紀にイギリスやフランス、オランダといったヨーロッパ勢やアメリカが東アジアへと進出してきたことが大きな流れでした。
個別に考えると、中国が開国を迫られ、アヘン戦争によって鎖国が崩れ、欧米諸国との不平等な条約を結ばざるを得なかったことがポイントでした。
中国がアヘン戦争での敗北によって開国することになった影響は日本にもありました。
加えて、フェートン号事件のような欧米諸国の事情による圧力が江戸幕府に不安の種を撒いていくことになります。
今回は、開国前の諸外国の圧力と開国後の動きについてまとめてみたいと思います。
それではご覧ください。
和親条約
有名な和親条約は日米和親条約かと思います。
和親条約の締結までの流れを確認してみましょう。
ペリー来航〜国書受け取り
1853年(嘉永6年)にアメリカの東インド艦隊司令長官であるペリーが浦賀に来航した時期から開国への道がより一層進んで行きました。
ペリーは4隻の軍艦を率いており、その軍艦の見た目から黒船と呼ばれました。
日本側から最初に接触を試みたのは、浦賀にある奉行所の与力である中島三郎助でした。
当初は、乗船すら拒否されましたが、通訳が「浦賀奉行所の副奉行である」と告げると乗船を許可され、来航の目的がアメリカ大統領フィルモアの国書を日本の皇帝に渡すことであると知ることが出来ました。
中島が接触した次の日からは同じ与力の香山栄左衛門に引き継がれ、相手方には身分を奉行と伝えて長崎への移動の交渉を続けました。
また、ペリー側からは日本側の高官へと直接国書を渡すために上陸も辞さない考えを告げられます。
そこで、交渉はうまく行かず、戦争になる可能性があると香山は幕府に伝えました。
老中の阿部正弘が将軍の代わりに久里浜への上陸を許可したことで、浦賀奉行所の奉行である戸田氏栄と井戸弘道がペリーから国書を受け取ることになるのです。
ペリー側へと浦賀から退去するよう伝えたところ、琉球経由で広東に行き、4月か5月ごろに再来航すると返事をした後に退去となりました。
ペリー退去〜再来航
退去後、香港にいたペリーは7月27日に徳川家慶が亡くなったことを知ります。
1854年2月には浦賀に再来航しました。
任務のために出入りした黒船もおり、7〜9隻の黒船が居座りました。
浦賀奉行所の組頭である黒川嘉兵衛が、アメリカ側のアダムス中佐と折衝を行いました。
3月に入り、横浜に応接場所が完成し、アメリカ側が上陸しました。
日米和親条約の内容
幕府の鎖国の方針は終わりを迎えて、アメリカとの和親条約が1854年3月31日に締結となりました。
別名、神奈川条約です。
内容としては、①下田・箱館の開港とその地における領事駐在の承認、②薪水・食料の給与、③片務的最恵国約定、④難破船や乗組員の救助などがありました。
片務的最恵国約定とは、他国が日本と条約を結んだ際に、アメリカとの条約に比べてより有利な条件で条約を結んだ場合には自動的にアメリカにもその条件を適用するというものでした。
日本側にはなく、アメリカ側だけが有する条件のため、片務的という言葉がついています。
日本にとってかなり不利な条約ですが、多数の黒船による圧力にはあがなえなかった結果です。
また、6月17日には和親条約の細則を定めた下田条約も締結されることとなります。
アメリカ以外との和親条約
イギリス、ロシア、オランダとの間でほとんど同じ内容での和親条約を結ぶこととなりました。
しかし、ロシアとの和親条約には国境問題が含まれていました。
その国境問題は、千島列島の択捉島と得撫島との間を国境とし、樺太を両国雑居とするというものでした。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
今回は「開国と和親条約」と題して、記事を作成しました。
ペリーは誰でも知っている人物ですが、日本の鎖国政策を終わらせて、和親条約の締結に関わったことはどれほどの方が理解しているでしょうか。
日本にとって不利な和親条約でしたが、強力な武力を持ったアメリカをはじめとした列強に侵略されずに済んだという事実も大事かなと思います。
ロシアとは国境問題が発生してしまったことは大変残念なことですが、当時の老中などの頑張りを考えてみるというのも見方の一つかなと思います。
ぜひ、繰り返しご覧ください。
最後までご覧いただきありがとうございました。
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