(近代日本史)身分の変化

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こんにちは。

アラフォーパパです。

前回は「常備軍の編成」という題名で記事を書きました。

長州藩出身の大村益次郎が唱えた国民皆兵は、山縣有朋に引き継がれて、徴兵令が実現しました。

しかし、実際には免除規定があり、農民の次男や三男などが実際の徴兵の中心となっていたという問題点が残っています。

様々な立場のひとが、いろいろな理由で徴兵に反対しましたが、この制度は進んでいきました。

軍政改革も進み、問題点はあるものの、日本の軍隊の基本が作られた時期になっていると考えることができます。

今回は、話が変わって、封建的な主従関係からの身分の変化を中心におさらいしていきましょう。

それではご覧ください。

身分の名称変更

公家や大名といった支配階級であっても、統一国家建設のために身分の整理が必要でした。

そこで、版籍奉還の直後に名称を変更して分類の変更を行いました。

公家や大名はひとまとめとなり、華族とされました。

華族は、明治初期のデータがあるタイミングでは2829人しかおらず、人口構成割合では0.00008%程度でした。

人口総数が3000万人程度であったことを考えると本当に少数だということがわかります。

次に、武士ですが、士族と卒族に分けられました。

卒族とは藩において同心や足軽と呼ばれるような末端の身分で、武士の身分を持たない下級家臣が当たります。

その後、1872年には卒族が士族と平民に分けられました。

世襲であったものが士族へ、一代限りの場合は平民へと分けられたのです。

平民

江戸時代には、農・工・商は異なる身分とされていましたが、明治政府ではすべて平民として同一視しました。

四民平等というお題目が掲げられ、見た目には平等な社会が実現したかのうようでした。

なぜなら、平民も名字をつけることや住所移転・職業選択の自由が与えられ、華族や士族との通婚の自由が認められたためです。

しかし、華族の経済上の特権が保障されていたり、官吏の大部分が士族出身であったりと、大きな隔たりがありました。

戸籍の作成

明治政府は、古い封建的な支配から、新しい支配の確立を考えていました。

そのための一つの方法として、戸籍の作成を決めました。

そこで、1871年4月に戸籍法を制定しました。

版籍奉還によって、天皇に集中させた人民を実際に確認し、姓名・住所・年齢などを登録していったのです。

これは、壬申戸籍と呼ばれました。

作成が完了した1872年の干支から名前がつけられました。

明治政府による統一国家としての実績としての意味もありました。

また、租税制度の確立や徴兵制の確立に必要不可欠でした。

壬申とは

本来の干支(えと・かんし)をご存知でしょうか。

十干(じっかん)と呼ばれる「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」からなる順列と12支の「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」を組み合わせたものです。

壬申戸籍(1872年)の壬申とは壬(みずのえ)申(さる)の年にあたったことから名付けられています。

672年の壬申の乱というのがありましたが、これも672年が壬申(みずのえさる)の年だったためです。

1200年経っていますから、20回まわっていますね。

もしかしたら年表を覚えるのにも少しは役立つかも?しれません。

>>暦の中の言葉

士族への対応

武士は士族として、平民とは異なる身分として配慮されました。

しかし、武士の身分的特権の象徴であった帯刀が禁止されていきます。

法令としては、1871年に散髪脱刀令がだされ、1876年に廃刀令がだされました。

士族は帯刀が全面的に禁止されたことから、強い反対をしました。

穢多・非人

従来から理由なき差別を受けていた身分があります。

それが、穢多(えた)・非人(ひにん)です。

1871年8月に明治政府はその称号を廃止するよう布告(賤民解放令)を出しました。

そして身分を平民としました。

しかし、布告を出した程度ではあまり効果はなく、結婚や住居・職業などの差別は根強く残っていました。

余談

そのまま日本史に利用できるわけではありませんが、時代背景の雰囲気を掴みたいときには、漫画がおすすめです。

この時代であれば、「るろうに剣心」あたりが時代背景の雰囲気をつかみやすいのではないだろうか。

まとめ

いかがでしたでしょうか。

今回は「身分の変化」と題して、記事を作成しました。

江戸時代までの身分制度からの変化をおこすために、身分の呼称を変え、制度上ではできるかぎり平等となるような政策が取られました。

しかし、今まであった封建的な主従関係がすぐに変わるわけもなく、実際には華族や士族と平民の間の隔たりは大きいものでした。

政府は士族の廃刀令などにより身分的特権の象徴を廃していくことで身分差をなくしていきたかったのではないでしょうか。

このように四民平等が主張されながらもうまくいっていない現状で、統一国家としての実績として壬申戸籍を作成しました。

租税制度や徴兵制度につながる大きな一手だったのではないでしょうか。

ぜひ、繰り返しご覧ください。

最後までご覧いただきありがとうございました。

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