(近代日本史)新貨幣と国立銀行

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こんにちは。

アラフォーパパです。

前回は「抜本的な地租改正」という題名で記事を書きました。

明治政府は、安定した収入を得るために地租改正を行いました。

不安定な収穫量を元にした計算ではなく、地価を元にした計算とすることで、収入を安定化させました。

また、物納から金納にすることで、さらに安定化をすることになります。

しかし、地租改正が進むにつれて、農民の不満が高まったことから一揆がおき、最終的には地価の引き下げを行わざるを得ませんでした。

今回は、新貨幣の導入と国立銀行の設立という金融制度の整備についておさらいしていきましょう。

それではご覧ください。

新貨条例

江戸時代には、雑多な貨幣が多数存在していました。

明治政府は、それらを整理して新しい貨幣制度を始めたいと考えました。

そこで、伊藤博文の建議をいれるかたちで、1872年に新貨条例を定めました。

新貨条例では、金本位制を採用し、十進法による円・銭・厘の呼称を用いることを定めていました。

>>新貨幣創設までの細かな流れ

国立銀行

1872年に制定された国立銀行条例が元になってできた銀行です。

国立銀行とありますが、国家が設立したのではなく、国家が設立を認可しただけであり、半官半民の株式組織です。

最初は発行銀行券に正貨兌換を義務付けたので、4行しかできませんでしたが、1876年に正貨兌換の義務を取り除いたところ、第百五十三銀行まででき、1879年には新しい国立銀行の認可ができないように打ち切られました。

兌換券の発行義務だけでなく、殖産興業への資金供給も任務としていました。

残念ながら、多額の不換紙幣の発行が経済界を混乱させてしまうという問題もありました。

さらに、1876年には、私立銀行として三井銀行が設立されました。

加えて、1879年には貿易金融機関として横浜正金銀行が設立されました。

渋沢栄一

上記の国立銀行の成立には、渋沢栄一が中心として関わっていました。

伊藤博文の建議により、渋沢栄一はアメリカの銀行制度を調査して、国立銀行条例に反映させました。

もともと、武蔵の豪農の出身であった渋沢栄一は、一橋慶喜の家臣となりましたが、維新のあとは実業界で活躍しました。

後年になると財界の大御所として指導的な地位につき、500におよぶ会社を設立しました。

そのことから、財務省によれば「傑出した業績を残し、新たな産業の育成といった面からも日本の近代化をリードして、大きく貢献した」ということで、今では一万円札に描かれることとなりました。

インフレーション

一定期間にわたって物価の水準が上昇し続ける状態をインフレーションといいます。

たとえば、何かがほしいとなったときに、供給される量よりも欲しい量のほうが多いと、物の値段は上がっていって、欲しい人の中で高くても買える人だけが手に入れられるような状態になってしまいます。

また、経済成長を上回る速度で、お金が世間に供給され続けると、お金の価値が下がってしまい、同じものでもたくさんのお金を払わないと買えなくなってしまいます。

このようにいろいろな理由でインフレーションは起きてしまいます。

明治初期には、国立銀行での不換紙幣の発行や秩禄処分による公債の発行によって、経済成長を上回るお金が世間に供給されてしまいました。

さらに、戦争によって物の使用量が増加し、供給が追いつかなくなってしまいました。

このような原因によって、貨幣価値の下落と供給不足によるインフレーションが起きてしまいました。

その結果、国民生活に大きな打撃を与えることとなってしまいました。

まとめ

いかがでしたでしょうか。

今回は「新貨幣と国立銀行」と題して、記事を作成しました。

明治政府は新しい貨幣制度の確立や新しい金融制度の確立を求めていました。

そのため新貨条例や国立銀行条例などを制定して対応しました。

これらは伊藤博文や渋沢栄一が関わっていました。

しかし、財政対策のための貨幣の供給過多や戦争による物品の需要増大によってインフレーションを引き起こしてしまい、国民生活には大きな打撃を与えることになってしまいました。

ぜひ、繰り返しご覧ください。

最後までご覧いただきありがとうございました。

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