こんにちは。
アラフォーパパです。
前回は「明治初期の宗教政策」という題名で記事を書きました。
王政復古・中央集権化のためのイデオロギーとして復古神道を受け入れました。
そのため、神仏分離令をだし、神道を優遇しました。
また、大教宣布の詔をだすなど、明治政府は神道による国民強化の方針を強く打ち出しました。
しかし、禁止としていたキリスト教は、外交的な圧力から、禁止の掲示を撤廃することとなってしまいました。
今回は、明治政府による教育制度の改革についておさらいしていきましょう。
それではご覧ください。

学制
明治政府は、近代的な統一国家建設のために、教育の普及が必要と考えました。
そのため、教育制度改革が必要と判断しました。
1871年に文部省を新設し、開明的(開明:新しい知識や思想を受け入れ、古い習慣や価値観にとらわれずに新たな見解を持つこと)な教育制度の確立に努めました。
翌年、8月には「学制」が公布されることになります。
起草は箕作麟祥(みつくりりんしょう)で、フランスの学制をモデルとしています。
内容としては、全国を8大学区に分け、各大学区を32中学区、各中学区を210小学区に分けるというもので、全国に53760の小学校を設けるという方針でした。
しかし、現実にはこの制度の確立は容易ではなく、高額の授業料のため、学制反対一揆が起こったところもあります。

高等教育機関
手始めに、明治政府は旧幕府の昌平坂学問所(儒学)や開成所(洋学)、医学所(医学)を接収しました。
1869年にはこれらを総合して大学校とし、昌平坂学問所を本校としました。
学長に相当する地位には、松平春嶽が任じれました。
1870年には、大学校から大学と改称され、旧開成所は大学南校(本校から南の位置だったため)、旧医学所は大学東校(本校から東の位置だったため)と改称されました。

大学のその後
1877年には、南校と東校が法・医・文・理に分かれる東京大学に発展しました。
これは、文明開化の風潮のなかで洋楽中心の傾向が強まり、洋楽系統の南校や東校が中心となったことが原因とされています。

その他の教育機関
工部省が創設した大学校として、工部大学校があります。
これは、現在の東京大学工学部の前身の一つとされています。
今日の日本の工業技術の礎を築き、工業発展に多大な役割を果たした。
また、内務省に関わるものとしては、駒場農学校があります。
これも現在の東京大学農学部の前身とされています。
加えて、1872年には師範学校が東京に設置され、アメリカからスコットを招き、近代的教育学を学ばせました。

民間の高等教育機関
福沢諭吉が東京で開いた慶應義塾は1868年に創設されました。
また、1875年にはアメリカ帰りのキリスト教信者である新島襄によって同志社が設立されました。
大隈重信は1882年に東京専門学校(現在の早稲田大学)を創立することになります。
現在も残っている名門校はこの時代に創立されたものも多くあります。

教育令
学制が地方の実情に合わなかったことも踏まえ、新たに公布されたのが、教育令でした。
そのため、学制は廃止となりました。
1879年のことです。
学制からかなり緩めたものでしたので、明治政府の画一的な国民教育の前進に対して、障害となってしまいました。
そこで、政府は1880年に改正教育令を交付して、統制の強化を図りました。

まとめ
いかがでしたでしょうか。
今回は「教育制度の改革」と題して、記事を作成しました。
明治政府は、近代的な統一国家建設のために教育制度の改革を進めました。
フランスの学制をモデルとした「学制」が公布されたのです。
その結果、現在の東京大学の前身となる大学校が創立され、現在の名門私立大学につながる学校も創立されていきました。
しかし、「学制」が地方には合わなかったこともあり、統制を緩めた教育令を出す羽目になりましたが、画一的な国民教育の前進にとっては障害でしかありませんでした。
最終的には改正教育令によって統制の強化を図ることとなってしまいました。
ぜひ、繰り返しご覧ください。
最後までご覧いただきありがとうございました。

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