こんにちは。
アラフォーパパです。
前回は「公武合体」という題名で記事を書きました。
幕府の政治を担う譜代の大名たちは、朝廷の権威を利用して、幕府に対する反対者の勢いを削ごうと検討します。
その方法こそが、孝明天皇の妹と将軍徳川家茂が結婚するという一手でした。
これにより、朝廷と徳川幕府が懇意になったと喧伝することで、反幕運動を弱体化させるつもりでした。
簡単には行きませんでしたが、結果として、幕府の改革を推し進められたきっかけとしてとても重要な出来事でした。
しかし、尊王攘夷派による運動は収まるどころか、激化の一途を辿ってしまいます。
今回は、尊王攘夷派のあばれっぷりを中心におさらいしていきましょう。
それではご覧ください。
志士の変化
安政の大獄までの尊王と攘夷を主張する志士は、雄藩諸侯の家臣や京都に集まっていた浪人学者が中心でした。
処罰を受けた対象が、橋本左内(越前藩士)・吉田松陰(長州藩士)・梅田雲浜(小浜藩浪士)であったり、一橋派の諸侯や幕臣であったりすることが、何よりの証拠でしょう。
しかし、安政の大獄以後、それまではあまり出てきていなかった地方の豪農や豪商出身の者など、広い範囲から志士が排出されていきます。
例えば、久留米の神官であった真木和泉、土佐の町人郷士である坂本龍馬、土佐の豪農であった中岡慎太郎などです。
これらの志士を、「草むらのなかから生まれた志士」という意味から草莽の志士という呼び方をします。
生麦事件
それでは、1862年(文久2年)8月にあった生麦事件についてみていきましょう。
尊攘運動の激化の例としては、一番有名ではないでしょうか。
島津久光が江戸から引き上げてくる途中、大名行列をイギリス商人が妨げたということで、薩摩藩士がイギリス商人を殺傷しました。
この事件が、横浜郊外の生麦村付近であったことから、生麦事件と名付けられています。
尊攘運動の激化とともにこのような外人殺傷事件が頻発していきます。
外人殺傷事件
生麦事件以前にも、外人殺傷事件はありました。
1860年12月にはアメリカ通訳官のヒュースケン(オランダ人)が殺害されました。
1861年5月には、水戸浪士によって江戸の東禅寺におかれた仮イギリス公使館襲撃事件がありました。
生麦事件以後も事件は続き、1862年12月には高杉晋作らによって、品川御殿山に建築中のイギリス公使館が焼き討ちされました。
破約攘夷の勅命
尊攘運動の中心であった長州藩では、桂小五郎(木戸孝允)と高杉晋作、久坂玄瑞ら松下村塾出身者の活躍で、尊攘派が藩の主導権を取るようになりました。
また、土佐藩でも武市瑞山らの尊攘派が進出してきていました。
これらの藩の尊攘派たちは、攘夷派の公卿と結びついて、朝廷を動かすまでになっていきました。
その結果として、開国政策をとっていた幕府に対して、破約攘夷の勅命を伝える勅使三条実美と派遣することとなりました。
1862年10月のことです。
幕府は攘夷が不可能であるとわかっていましたが、この勅命を受けざるを得ませんでした。
攘夷の実行
破約攘夷の勅命を受けたことにより、将軍徳川家茂は、1863年になって上洛しました。
攘夷派は勢いをまし、朝廷から幕府に対して命令を発し、1863年5月10日を期して攘夷実行の期日と定めてしまいました。
実際に5月10日には、攘夷派の中心である長州藩が下関沖合を通過したアメリカの商船を砲撃しました。
この事件を下関事件といいます。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
今回は「尊攘運動の激化」と題して、記事を作成しました。
草莽の志士といわれるような、諸藩の家臣などではなく、豪商や豪農など市井からも志士が誕生していきます。
尊攘運動は激化していき、外国人の殺傷事件が繰り返し引き起こされるようになりました。
また、長州藩や土佐藩の攘夷派は藩政に食い込み、朝廷にも影響力を持ち、実際に攘夷の実行へと舵を切っていきます。
生麦事件や下関事件については、中心となる出来事ですので、最初にしっかりと覚えてください。
ぜひ、繰り返しご覧ください。
最後までご覧いただきありがとうございました。
コメント