こんにちは。
アラフォーパパです。
前回は「尊攘運動の激化」という題名で記事を書きました。
市井からも攘夷をうたう志士が登場し、さまざまな志士が影響力を強めていきました。
実際に外国人の殺傷事件が起きたり、長州藩や土佐藩の中心に尊攘派が増え、朝廷を動かし、攘夷を実行に移してしまいます。
生麦事件や下関事件はその中心的な出来事です。
このように急進的な尊攘派が暴れまわりました。
今回は、急進的な尊攘派への弾圧の開始を中心におさらいしていきましょう。
それではご覧ください。
八月十八日の政変
攘夷の実行などの尊攘派の動きをうけて、会津藩の松平容保が動きました。
彼は、京都守護職の地位にあったこともあり、急進的な尊攘派が計画していた孝明天皇の大和行幸を機会とした倒幕挙兵計画を阻止する必要がありました。
松平容保の会津藩は、薩摩藩と連絡をとり、急進的な尊攘派を弾圧する体制を整えます。
その後、公武合体派の公卿と連絡をとりました。
1863年(文久3年)8月18日早朝に、会津藩・薩摩藩の藩兵で京都御所の宮門を固め、大和行幸を中止させ、三条実美らの尊攘派公卿を追放しました。
また、長州藩の宮門警備を罷免しました。
追放された尊攘派の公卿は7人(三条実美、東久世通禧、沢宣嘉など)おり、長州藩士らとともに長州へと落ち延びることとなりました。
これ以降、京都における政局の主導権が尊攘派から公武合体派に移った印象が強くなった。
天誅組の乱
大和行幸の際に挙兵しようとしていたのは天誅組であり、公卿の中山忠光や土佐藩庄屋の吉村虎太郎らがいた。
八月十八日の政変にもかかわらず、挙兵を中止しなかった。
挙兵は大和五条の代官所の襲撃とした。
しかし、諸藩の藩兵に討伐されて、十津川郷に立てこもったが、最終的には敗退して終わってしまった。
生野の乱
八月十八日の政変で追放された沢宣嘉が迎えられたのが、但馬で組織されていた倒幕挙兵のための農民組織でった。
福岡藩浪士の平野国臣が中心となって作り上げていた組織でした。
1863年10月に生野代官所を襲撃して挙兵。
しかし、諸藩の藩兵に責められて敗退し、平野は捕らえられました。
天狗党の乱
水戸藩の尊攘派も挙兵します。
1864年(元治1年)3月になって、武田耕雲斎や藤田小四郎らが中心となって、常陸の筑波山にて挙兵。
襲撃を目的としているわけではなく、入洛して幕府に攘夷の実行を促すことを目的としていた。
こちらも諸藩の藩兵に討伐され敗退。
池田屋事件
八月十八日の政変以後も京都に潜んでいた尊攘派の志士たちは、挙兵計画を進めていました。
しかし、1864年6月に旅館池田屋で会合中、新選組に襲撃され多くの犠牲者を出しました。
この頃、新選組は京都守護職の支配下にありました。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
今回は「尊攘運動の弾圧」と題して、記事を作成しました。
急進的な尊攘派の方々は多くが倒幕を目的として挙兵しましたが、うまくいきませんでした。
京都を追放された公卿もおりましたが、尊攘派の復権には至りませんでした。
天狗党、天誅組、新選組など様々な名前の組織が出てきますので、それぞれが尊攘派なのか、京都守護職の配下なのかなど、特徴をわけて覚えておく必要があります。
ぜひ、繰り返しご覧ください。
最後までご覧いただきありがとうございました。
コメント