(近代日本史)反政府の動き

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こんにちは。

アラフォーパパです。

前回は「新政府の成立」という題名で記事を書きました。

新政府は戊辰戦争を行う傍ら、中央集権的な国家の建国を行っていきました。

そして、五箇条の御誓文や五榜の掲示などによって、新政府の基本方針を明確にしました。

また、政体書を公布し、政府組織の法制を定めました。

このようにして、政治体制を確立しました。

さらに、天皇が最高権威者であることを印象付けるために、一世一元の制や東京への遷都を行いました。

今回は、この新政府の動きに対して反対している人々の流れを中心におさらいしていきましょう。

それではご覧ください。

世直し一揆

戊辰戦争が終わったころから、全国各地で世直し一揆が起き始めました。

これは、新政府に失望しはじめた農民が起こしたものです。

もともと戊辰戦争の際には、正規の藩兵だけでなく、浪士や農商など草莽(そうもう)の組織が独自の役割を果たしていました。

農民に関係する組織として、中山道を下る征討軍のうち相楽総三の赤報隊では、年貢半減をとなえて農民を味方にしていました。

しかし、財政難の新政府が年貢半減を認めるはずもなく、相良などは偽官軍として処刑されます。

このような話をはじめとして、農民が期待していたことは新政府では起こらず、失望が広がっていきました。

政府高官の暗殺

農民だけでなく、士族にも不満が広がっていました。

新政府の近代化政策に対して、保守派の開国反対はなどが不満をもったことが原因です。

例をあげてみていきましょう。

横井小楠の暗殺

1869年1月5日に京都にて暗殺されました。

>>横井小楠殉節地

横井は先進的な開国論者で、新政府では参与として出仕していました。

しかし、開国反対派の凶刃に倒れました。

犯人は十津川人や尾州人と言われています。

廃帝論者であるというような濡れ衣や開国してキリスト教を広めようとしているなどの濡れ衣を保守派から着せらる羽目にあいました。

横井小楠の暗殺が明治新政府発足後の初めての暗殺となりました。

大村益次郎の暗殺未遂

武士から刀をとりあげ、国民から広く軍人を募る徴兵制を目指した大村益次郎は、武士から強い不満を持たれることとなります。

実際には、新たに取り入れた西洋式の武器を扱うには、先入観のない農民のほうが上達するということから、徴兵制を進めていました。

しかし、京都にて長州藩士を含む武士8人に襲われます。

幸い、そのときは小さなキズですみましたが、逃げた場所で感染症にかかり、暗殺未遂から2ヶ月後に命を落とすことになってしまいます。

>>大村益次郎のはなし

>>大村益次郎の命がねらわれた経緯

大村は、徴兵制が士族からの不満の元となり、特に西国の雄藩が内乱を起こす可能性を考え、死ぬまで対策を考えていたとされています。

残念ながら、暗殺未遂をきっかけに命を落としましたが、その意志を継ぐものによって徴兵制が構築され、1873年には実際に徴兵令が出されるまでになっています。

広沢真臣の暗殺

政府高官の暗殺(および暗殺未遂)事件としては、3件目です。

参議であった広沢真臣が暗殺されました。

しかし、この暗殺では犯人は特定することができず、迷宮入りとなっています。

不満をもっている士族に暗殺された説や旧幕府軍の残党によって暗殺された説、不仲と噂のあった木戸孝允が黒幕だった説など、さまざまな憶測がされています。

まとめ

いかがでしたでしょうか。

今回は「反政府の動き」と題して、記事を作成しました。

新政府に対する不満は、実際の行動として様々な形で現れました。

新政府に期待していた農民は、その不満から世直し一揆を起こしました。

士族は自分たちの立場がなくなっていくことに対して不満が強く、保守派は開国に反対の立場であり、政府高官を暗殺するという実力行使に出てしまいます。

急激な政治体制の変化によってどのような対立が起きたのかを知りましょう。

ぜひ、繰り返しご覧ください。

最後までご覧いただきありがとうございました。

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